サットサンガ・ライブ 3月26日
2020年7月29日

謙遜さを学ぶことで神を知る
ライブストリームで配信された今日のサットサンガでは、パラマハンサ・ヴィシュワナンダのチャンティングの速さや、謙遜さを育むこと、スワミとの経験、そして神とは誰か、何であるかについての質問に答えました。
ジェイ・グルデーヴ! みなさん!
以前にもお話しましたが、世界は今、パラノイア(誇大妄想・被害妄想)に包まれつつあります。
全ての人のマインドの中にそれが入り込んできています。ここ、ヴリンダーヴァンでさえも、当局の方々の中に、そういった怖れが見られます。インド的な官僚主義の弊害もあって、書類の提出が何度も繰り返され、今日提出した書類が、明日には、また別の書類が要求されて、またその次には、さらに別の書類です、書類を印刷し続け、そしてそれを提出し続けています。もちろん、その原因となっているのは、近隣の方々の懸念なのですが、人々の心情として、西洋人を見ると、それがコロナウイルスの蔓延の原因になるという考えを持っているからです。ある程度、そのような懸念は仕方がないことですが。ただ、マインドの傾向として、そうした偏見が形作られて全てを同じに分類し、判断してしまうのです。西洋人、外国人はいつでも「コロナウイルス」の原因と見られます。
それはここだけではありません。ドイツにもアシュラムがあり、この数年間、政府に言われた通りをすべてと、近隣の方々のクレームの対応も行っていますが、問題がなくなることはありません。人は、問題を好むのです。怖れを、悩みを好むのです。喜んでいる人、幸せな人を見ても、人はそれをネガティブにとらえ、みじめな思いをしています。だからこそ、今、バガヴァーンはこうした状況を作り出されているのかもしれません。そのようなことで、ここインドでの書類のやり取りの問題もあり、今日のサットサンガは少し遅れてしまったのです。まあ、人とはそういうものとして、仕方がないことです。今日は、シヴァ神のTシャツを着ています。シヴァの頭にはクリシュナ、その上にはシュリーマン・ナーラーヤナがいます。このTシャツが教えてくれている通り、私たちは、このシヴァ神のように、常に主ナーラーヤナに集中し、世俗の問題を気にしないということです。そういうことで、インドのアシュラムで今、起こっていることを少しお話しました。それでは、スワミ・レヴァティカーンタ、質問をお願いします。
【質問】
グルジ、聖者の生き方、教えに従うようにと、いつもおっしゃるのですが、私のマインドは問題を抱えています。16ラウンドのジャパを行う場合、急いでやり過ごすことがないように、と助言をくださいました。一方、ライブ放送でのグルジのジャパを見ていると、とても、速くされていますね。それは、グルジには、特別な集中力があるからでしょうか?それとも、何か他のことがあるのでしょうか?
【パラマハンサ・ヴィシュワナンダ】
実は、私は「オーム・ナモー・ナーラーヤナーヤ」ではなく、「ヴィッタラ、ヴィッタラ、ヴィッタラ、ヴィッタラ、ヴィッタラ、」と唱えています。だから、とっても速いのです。唱えていると、ヴィッタラとルクマーイのヴィジョンが現れるため、このお二人とのやり取りをしています。
だから私は「とても早く」唱えることができるのです。
通常、私は唱えなくても、呼吸の度に神を意識しているからです。このジャパは、私のためではなく、みなさんのために唱えています。毎日、神の御名を唱えることが習慣になってほしいからです。いろんなところでお話してきましたが、このサットサンガが始まってからもずっと、私たちの人生や生活の中で、神の存在を絶えず思い出すことが大切です。私がジャパを速く唱えても遅く唱えても、それは日常生活での様々な振舞でも同じ態度と信仰で行っています。この質問者の言うとおり、ジャパを行う場合、マインドを鎮める必要があるため、機械的に速く唱えることは好ましくありませんが、私の場合にはそうしたことに影響を受けることがないので、御名を叫ぼうと、周りに人がいよういと、マインドの状態は変わりません。そして、あなたにとっても同じです。バガヴァーンの名前を唱えることはできますが、帰依と深い信仰をもって行うことが最も重要です。もし、神の御名を唱えることに信仰がないなら、それでも一定の効果がありますが、機械的なもので終わってしまいます。一方、唱える御名にハートを捧げることで、偉大な力が生まれるのです。私は、このジャパをとても楽しみにしています、こちらの現地時間で夕方4:15分から始まります。みなさんと一緒に行うジャパの時間が来るのを、とても楽しみにしています。
【質問者】
謙虚さを養う最良の方法とは何でしょうか。
【パラマハンサ・ヴィシュワナンダ】
知っての通り、謙虚さが、お米1キロだったら、お店に行って購入するだけで済み、はるかに簡単です。人は「はい、私は謙虚です」と口では簡単に言いますが、そういうものではありません。謙虚さとは、人生を通して培うものです。1日や2日で簡単に手に入るものではないのです。「私は謙虚です」と口にしたら、謙虚になるわけではありません。謙虚さとは、自らをどのように見るか、自らの在り方の問題で、そこには変容がなくてはなりません。意識の目覚めが必要です。エゴとプライドがあるところに、謙虚さは目覚めてきません。
「はい、私は謙虚です」と口では言いながらも、そうでない人がたくさんいます。自分ではそう思っていても、実際に話をしてみると、彼らは神のことには触れることなく、自分のことだけを話すのです。他のことは話さずに、いかに自分がすごいかとか、どれほど多くのものを持っているかとか、その状態で自分のことを謙虚だということが多いのです。謙虚さというのは、美徳の一つですが、そこからさらに内側へと深く入っていくと、もっと謙虚でなければならないことに気づいていきます。自分は何でも知っていると思うほど、人は傲慢になります。しかし、まだ多くのことを学ぶ必要があると考えるほど、あなたを謙虚にするでしょう。
学びというものは終わりがないからです、あなたがこの世に誕生して最初の息をし、そして最後の呼吸まで、学びは続きます。まさに、これは謙虚さです。自分は何も知らないと言いなさい、言うだけでなく、実際に何も知らないことを自覚しなさい。自分とは何かを知っていますか?知らないからこそ、自分はすごいとか偉大だとかという思いが湧き上がるのです。そんな思いあがった心を、主は一瞬で取り去ってしまわれるでしょう。そして、それが今のこの世界で起きていることです。このウイルスのお陰で、全ての人が謙虚にならざるを得ない状況となっています。社会的な地位のある人から、ない人まで、自らの内を見つめ直し、自分とは何かを見つめる機会となっています。息を引き取るときには、この世で蓄積してきたもの、今持っているもの、あらゆる人間関係を手放さなければなりません。「わたしのもの」は一つもないのです。だから、謙虚でいなさい。このことが理解されていません。なぜ、自分の財産、自分が持っているものを自慢するのですか?働いて沢山お金を稼いでもいいでしょう。それはあなたのものです。でも、そのことを自慢し、そのことで傲慢になる必要はありません。その全く同じプロセスの中で、謙虚な姿勢であり続けることもできるのです。
ギーターの第12章・第2節で、クリシュナは帰依者が備えていなくてはならない3つの資質について言及されています。
私にマインドを固定する人々、私を礼拝する人々、私を信じる人々、私は彼らを最高のヨーギだと考えています。彼らは最高の道にいます。人はバクティの道をとても簡単で、経験や知識のない人のためのものである、と言うことがありますが、実はそうではありません。
バガヴァーンが言われた3つのこと、「私を固く信じている人々」。神への信仰とは、そうではありません。「ああ、私は盲目的に何かを信じています」と、これとは全く異なります。信仰は、あなたが知らないことを、あなたに気づかせてくれるのです。
礼拝に関して言えば、世間一般には、神像を拝む私たちを見て、「なんて愚かな人々なんだ!」と考えるでしょう。石や金属の塊を神として礼拝するなんてと思うかもしれません。でもそれは真実を誤解しています。実際、この礼拝のプロセスで起こっていることは、あなたのマインドが何かに集中する必要が在るということであり、外側に意識の焦点を置くことです。それは外側の世界に焦点を合わせ、その世界の奴隷となるか、あるいは、あなたのマインドは、特定のイメージ、特定の焦点、特定の目的を与えられました。彼らは、自身に焦点を合わせていません。彼らは愛する主に焦点を合わせています。これが彼らの崇拝の対象です。神像は制限された物だとしても、無限のマインド、偉大な心は、その崇高な姿に集中することを学んだのです。主の形は、たとえそれが限定された物でも、実際には信仰を持っているのです。石を石として信じるなら、それは石となるでしょう。その同じ石を神と信じるのであれば、それはシヴァ・リンガムになります。そのように信念は、崇拝しているとき、その崇拝の対象が焦点となり意図になります。
そしてバガヴァーンは言いました、3番目は「私に彼らのマインドを集中させます。」そのとおり、これら3つのサウンドは似ています。Faith:信仰を持っている人、find:物に彼の姿を見ている人、そして、focus:彼に心を向けている人。それらは似ています。私たちは瞑想したり、座ってジャパをしたりできますが、多くの場合、私たちのマインドはさまよっています。そこで、バガヴァーンは言いました、「私に心を集中させている人々、私はそれを最高のヨーガと見なします。」
ここでの集中とは、全ての注目を、一つの点に集中させ、揺るがないということです。小説を何冊も読んでも、マインドに沢山のこの世的な事象が詰め込まれるだけで、それによって、人生そのものへの影響、霊的な変容が起こることはないでしょう。何百冊の本を読んでも同じことでしょう。それどころか、マインドの向かう先は様々な事柄へと右往左往することになります。ここですべての問題が発生し始めます。
しかし、あなたが主にマインドを集中するとき、あなたは彼のリーラに集中しています。あなたの中の何かが目覚めていきます。それにより、人生そのものが理解されるのです。バガヴァーンが聖典を通して授けたもの、バガヴァータムやバガヴァッド・ギーターなどです。あなたが本当の自分とは何かに気づき、霊性の道の先にある目的を達成するためのものです。それはマインドや感覚器官を越えた領域です。そしてその理解が行われるのは、あなたが謙虚であることが前提です。それ以外にあり得ないのです。愛に関して、様々な観点から説明がされ、その感じ方も様々ですが、愛の本質の根底には謙虚さがあるのです。愛には、様々な種類があります。親子間の愛、夫婦間の愛、恋人間の愛、こうした世俗的な、一時的な愛の中にあっても、その関係を維持するために、人は自由を放棄すること、また両方がお互いを維持するために自分の自由を放棄することです。
このコロナウイルスのために、閉鎖された空間に閉じ込められているディヴォーティが愉快な写真やビデオを送ってくれました。一緒に制約された空間で3日も4日もともに過ごすことがどれほど大変かがわかります。今朝も、ある人からビデオが送られてきて、そのビデオには、1日目は仲良しだった夫婦でありながら、四日間の封鎖が解かれるころには、妻がベルトで夫を叩こうとして、そこで許しを請う夫の姿が描かれた漫画のシーンが、「封鎖の4日後」というテロップとともにありました。ですから、こうした世俗の愛にあっても、お互いの謙虚さというものが大切です。世界中で今、こうした状況の中で、人々は謙虚にならざるを得なくなってしまいました。そして、それは、自らの内側へと入っていく大切な時間、大切な機会を与えられていることでもあります。多くの人が、このことに気づくことを願っています。このサットサンガが始まって、最初の頃にもお話しましたが、私たちは神の愛を広げていき、多くの人と分かち合うことに努めていますが、全ての人にそれが理解されるわけではありません。
それで今、2人の隣人の話を思い出しました。隣人同士で起こった話ですが、一人は知性豊かで裕福な男性で、彼には立派な邸宅とその庭には美しい果樹園がありました。ところが隣に住む、いつも機嫌の悪そうな老人は、彼に嫉妬していました。なんとかして困らせたり、怒らせたりしたいと、その機会をうかがい、様々なひどいことを仕掛けていました。ある日その老人は、生ゴミでいっぱいの籠を彼の豪邸の玄関先に置いておきました。隣人の裕福な男がそれに気づくと、それでもそのことを全く気にかけず、籠からゴミを全て出して、その代わりに自らの果樹園でとれた新鮮なリンゴをいっぱいに詰めて、その老人の家の玄関に立ち、ドアをノックしました。
不機嫌な老人がドアをノックする音を聞いたとき、いよいよ直接対決の時が来たと思い、身構えました。そしてドアを開けると、そこには籠を抱えた男性がいて、中に沢山のリンゴが入った籠を老人に手渡しました。そして男性は言いました「聞いてください、あなたの籠を返します。あなたは私に、あなたの持っているものを与えました。そして私は、私のものを差し上げます。」
このような状態の世界にあって、あなたは、ハートの奥底にある真の自分を、相手の反応や振舞や態度に関わらず、分け与えることができるのです。真の謙虚さとは、環境や相手によって変わるものではなく永遠です。あなたはそのように生き、世界に示していきなさい。
【質問者】
グルジ、私は、あなたの側近であるスワミとの間で、ネガティブな体験もポジティブな体験もしています。もし私が、グルジの代理としての役割を担うスワミの教えに従わないとしたら、それは、グルジの教えに従わないことと同じほどの結果やカルマを負うことになるのでしょうか?
【パラマハンサ・ヴィシュワナンダ】
実際には、そのような影響を受けることはありません。なぜなら、彼らは、あなたのグルではないからです。ここで明確にしておかなければならない大切なことは、誰がグルなのかということです。私が、みなさん全員にとってのグルです。ですから、あなたがスワミの教えに従うか否かに関わらず、その結果としてのネガティブな影響を受けることはありません。しかし、スワミには一定の任務が授けられているために、また、勿論、私の代理としての役割も担っているために、それにふさわしい敬意が払われなければなりません。しかし、彼らがもし自らが真のグルであるかのような立場を装って、人々にその教えに従うよう、また足元にひざまづくよう強要するなら、それは間違っています。このような例をこれまで何度か耳にしたことがありますが、それは全く馬鹿げたことです。イニシエーションをスワミの手から受けることがあっても、私がグルであることは全く変わるものではありません。そのことを忘れないでください。私が実際にそこにいるかどうかは関係ありません。私は、あなたがどこにいようと、常にあなた方のグルです。
【質問者】
グルジにとって、神とはどのような存在ですか?私たちは神とは何であるか、その本質を分かち合っていますし、このことについて、人生の中で多くのことを私は理解はしてきているつもりなのですが、なにかひとつの例を挙げて示してくださいませんか?
【パラマハンサ・ヴィシュワナンダ】
あなたは多くを理解しています、でもまだ、神とは何かの本質が理解されていないなら、私が、なにか一つ、あなたの理解に付け加えたところで、あなたの問題は解決しませんし、人生の変容は起こらないでしょう。人は神を概念として捉えるのが好きです。神を自分の都合に合わせて、神とはこういう存在であるということを聞きたいのです。人は様々な道を通して、様々な方法によって、神を探求しますが、自分の都合にあった神に合致する説明を、誰かから聞けることを期待しているのです。彼はそれを聞いて初めて満足します。
ある男性が、アシュラムからアシュラムへと転々とする中で、いつもこうしたことを尋ねていました。もちろん彼のマインドには、すでに彼の用意した答えがあって、その答えと同じ説明を聞きたかったのです。神とは長くて白いあごひげを生やしている、厳しい顔をした、怖い老人の姿をした存在、といったイメージであったり、あるいは、いわゆる願望成就の木のように、実際には神がその祈りを聞き入れるかどうかもわからないのに、いつでもどんなことでも願いごとを叶えてくれる存在であるとイメージしたり、あるいは神とは何かを知るために、人生をかけて人生の全てを捧げる人もいます。この質問者は、神とは何かについて、自分のすでに持っている答えがグルから返ってくることを期待しています。
そして、神を知るために誠実かつ真に彼らの人生を捧げる人がいます。そう、あなたは私が「神はだれですか」そいう質問に答えるのを期待しています。いいえ、そうではありません!わかりますか? 私が、「神は愛です」と答えたとしたら、その言葉によって、あなたのハートの中に愛が目覚めるでしょうか? もし私が、「神とは至福です」と答えたら、あなたの中に至福感が湧き上がってきますか? 神を知るには、ハートの奥底からの誠実なバクティ(献身)が必要で、ハートの奥底からの神を切実に求めるバクティによってしか実感認識されないのです。その時初めて神は自らを顕現なさるのです。それ以外にはあり得ません。神について概念を次々と渡り歩いたところで、どの概念もあなたを満足させることはないでしょう。概念によって神を理解しようと試みることは時間の無駄です。そうではなく、神とあなたとの関係を築いていくことによってそれを求めなさい。
「しかし、神が何であるかも理解できていないのに、どうして神との関係が築けるのか?」という質問が返ってきそうですが、聖典を研究しても、誰もが全てを知っているわけではありません。神は自信を明らかにされます。つまりこういうことです。何かわからないことがあると、人はそれについて調べます。例えば科学者は、まず本を読んで学びます。それからそこに書かれていたことを、実験室で実際に試してみます。そしてその結果を検証するのです。それと同じことが霊性の領域においても言えます。神を知りたい神はどういう存在なのかを理解したいと思ったら、聖典に書かれている聖者の生き方を学びます。そして今度はあなた自身が、そのことを、この世の中という大いなる実験室で試すのです。そうして初めて、その実践を通して、自らがそれを検証することができます。そしてその実験は、正しく行われるべきです。ただマインドの中で、思い巡らすだけではいけません。神の概念だけでは、限られた理解しか得られません。マインドだけでは、無知の世界にさらに深く陥り、堂々巡りになってしまいます。しばしば見られることですが、人は概念としての神を知的に理解することで、知的な満足しか得ていないのです。それで本当の幸せが得られるでしょうか? マインドにとって心地よい、自分の都合に合う神の概念を持つことによって、一時的にはある種の昂揚感を得ることはあるかもしれません。
でもそれも長続きはしないでしょう。永遠に変わらない至福感、一時的でもなく、はかなくもなく、常に、あなたとともに、あなたの中に、あなたの周りにある至福を得なければなりません。神とは、単なる言葉や概念で片付けられるほどの小さなスケールの存在ではありません。過去の聖者やリシたちの生き方に学び、彼らがどのようにして、神との関係を築いていったのか、それを実践することで、実際に神を獲得できることを、自らが示しなさい。
ここに、ある実話を紹介しましょう。インドに、ある報道関係の記者がいました。毎年多くの人が、マハーラーシュトラ州のパンダプールという聖地に、巡礼のために何日もかけて遠くから歩いて来て、パンドュランガのダルシャンを得るためにお参りをします。巡礼者の中にある老人がいて、その記者は彼にインタビューをしました。もう何年間パンダプールまで歩いて巡礼をしているのですか? 老人は言いました「70年間です、毎年、まる1か月をかけて、巡礼をしてきました」。
この巡礼に参加している人々は、歩いている間、絶えず、「ヴィッタラ、ヴィッタラ、ヴィッタラ」と唱えています。巡礼者は何百万にも及ぶため、実際には全ての人が寺院の中に入って、パンドゥランガのダルシャンを受けることができるわけではありません。この老人もその一人でした。中に入れない人は、カラシュだけのダルシャンを手に入れます。つまり、寺院の屋根にあるポットです。そこで礼拝をして帰っていくのです。なんというバクティの深さでしょうか。
記者は尋ねました。「あなたはパンドゥランガのダルシャンを70年の巡礼の中で一度も授かっていないのですか?」、老人は言いました「ええ、一度もありません。しかし、私が神像のダルシャンを受けることができなくても、実在の神が私をまちがいなく見ていることに、私は完全な信頼を置いているのです」
「その信頼・信仰はどこからくるのですか?」
彼は言いました、「私は、聖者ガネーシュワラやトュカラームの教え、これらの聖者の言葉に完全な信頼を置いているのです。なぜならこの聖者たちは、自らの人生を通して実現したことを私たちにもできると、実際のお手本を示して、私達に教えてくれているからです。」ここヴリンダーヴァンでは、夜、犬が吠えているのを良く聞きますが、ある泥棒を見て、一匹の犬が吠えると、他の犬も吠えだすということがあります。彼らは実際に、その泥棒を見たわけでもないのに、初めに吠えた仲間を信じて吠えるのです。犬同士であっても、これほどの信頼関係にあるのです。人間であれば尚更のこと、先人の果たしたこと、実現したことを、その残された教え・言葉を信じることができるはずです。
ですから、聖人、サドゥー(修行者)、グルが語ること信じて、本当に試してみれば、美しい答えを見つけ出すことができるでしょう。全てを実践できるとは言いませんが、少なくともグルと神との関係を築くために最善の努力をしてください。その恩寵により、神はあなたの前に現れるようになります。
ジェイ・グルデーヴ!